Interview 命を守り、人生をつなぐ。日本で唯一の防災家が教える「生きる術」

Hitonovaインタビュー野村功次郎

元消防士であり、「世界一受けたい授業(日本テレビ)」の防災スペシャリストや、「THE突破ファイル」の再現ドラマのスーパーバイザーとして知られる野村功次郎さん。22年間の消防士経験で培った知識やスキルを活かし、日本で唯一の防災家として、多様な発信を行っています。

防災に限らず、「生きる術」を伝えていくことがキャリアのテーマであると話す野村さん。消防士を目指したきっかけや、ターニングポイントになった出来事、これからの世代に伝えたい防災のあり方について伺いました。

災害現場での体験をベースに 「生きる術」を伝える

野村功次郎021

――防災家・防災スペシャリストとして、講演をされる機会も多いと思います。最近は、どのようなテーマでの講演依頼が多いですか?

全体のうち6割を占めるのが、防災危機管理や、事業所などの危機管理体制、BCP(事業継続計画)の策定といったテーマです。残り4割が、災害、救急、防災の現場でのエピソードを交えながら「生きる術」を伝えるものですね。企業向けのセミナーや社員研修では、講演に加えてワークショップを行うこともあります。未来を想定して動くことで、見えないものに気づき、課題に対して臨機応変に対応する力を培っていただくことを意識しています。

――具体的に、どのようなワークショップを実施されているのでしょうか?

例えば、社員旅行中に無人島に漂着したという想定で、力を合わせて生き抜くことを目指すワークショップがあります。4人1組でチームを組んでいただき、社長、部長、新卒社員、たまたま会社を訪問した取引先の人といった役を、それぞれ割り振るのです。持ち物はライフジャケットだけ、食料などもありません。

そんな状態の時に「俺は社長だ」「私は入社1年目なので何も分かりません」「私は部外者です」などと主張し合っていては、事態は好転しませんよね。命を守るにあたり、どのようなことが阻害要因になるかあぶり出し、コミュニケーションを取りながらそれぞれの長所を認め合って、どうすれば生き抜けるかみんなで考えることがこのワークショップの狙いです。

「親孝行をしたい」という思いが キャリアを選ぶきっかけに

野村功次郎013

――10代の頃は芸能活動をされていたそうですね。なぜ、芸能界に入ろうと思ったのでしょうか。

出生時の話から始めますが、私は仮死状態で生まれ、救命措置のおかげで息を吹き返しました。そのような状態だったことから発達が遅れており、小学1年生になってもまだ自分の名前が言えなかったのです。発育にも偏りがあり、中学生の時には関節の病気を患いました。中学時代の半分近くを入院生活していたため、制服を着て通学、青春という思い出はりありませんでした。

母は、私をそのような体に産んでしまったことに対して、自らをずっと責めていました。ただ、他の子どもと比較することなく、私に対しては「自分が思うことを好きなようにやりなさい」と励まし続けてくれたのです。こんな私でも成し遂げられることがあると証明したい。しかし、すんなりと高校進学とは行かず、字も読めない計算も出来ない私はアルバイトをしながら定時制高校に進学するしかありませんでした。さらに、田舎では、世間から落ちこぼれたり、人と少しでも違うことをすると悪目立ちしてしまいます。それなら東京に出て、自分を認めてもらうためにタレントになろうと決意しました。

――高校時代から芸能事務所に所属し、舞台やテレビで活躍されていましたが、18歳の時に引退。そこから、消防士を目指すまでの経緯を教えてください。

18歳の時、父がくも膜下出血で倒れたという知らせが届きました。最後になるかもしれないというベッドの上で、父が私に残したのは「できれば堅い仕事に就いてほしい」という願いでした。その言葉を聞いた時に、私のハンデを理解し、常に支えてくれた両親に対して、親孝行をしたいという思いが募ったのです。

芸能活動を引退して、地元・広島へ戻ってからは、定時制高校へ通いながら、アルバイトを3つ掛け持ちしながら、空いている時間を利用して勉強に励みました。勉強を始めて1年後に公務員試験を受け、警察、消防、刑務官、海上保安大学校など全てに合格。その中で、全国への異動の可能性がない、地方公務員の消防士を選ぶことにしました。

ターニングポイントになった 90歳のおばあさんとの出会い

野村功次郎019

――野村さんは、消防士として、広島県呉市消防局に22年間勤務されてきました。多くの災害を目の当たりにし、過酷な経験もされてきたと思います。消防士時代を振り返り、最も印象に残っているのはどのような出来事ですか?

1999年に広島市・呉市を中心として発生した「6.29豪雨災害」で、90歳のおばあさんを倒壊建物から救出した時のことです。大雨の中、通報があって駆けつけると、2階建の建物がほぼ全壊、電柱が倒れて漏電し、ガス管が破裂しガス漏えいと、これまでにない劣勢な環境下の現場でした。
更に、要救助者の負傷状況を推測すると、倒壊した建物に挟まれて、大量の土砂とともに生き埋め状態。夏場は体から水分が抜けやすく、出血も促進されるので、通常よりも早い命のカウントダウンが始まっている・・・。ましてや、中にいるのは体力の乏しい90歳のおばあさん。たとえ数時間かけて救助できても助かる見込みは少なく、隊員みんなが直ぐに動くのを躊躇(ちゅうちょ)していました。

――そんな中、行動を起こしたのが野村さんだった?

はい。私が先に倒壊家屋に侵入しますと言って建物の中に入り、おばあさんに声をかけました。おばあさんはまだ生きていましたが、足を骨折していて自力では動けません。更に、漏電とガス漏れにより高度救助用資機材は全て使えないため、救助が非常に困難な状況でした。

どのように救助しようか考えていると、おばあさんが「今朝、息子と口ゲンカをしてしまったの。ケンカ別れになってしまってつらいけれど仕方ないわね。どうか、ありがとうと伝えてください」と言うのです。続けて「次に建物が崩れたらあなたが死ぬから諦めなさい」と。自分が亡くなりそうな時に、他人である私のことをねぎらう姿が、どこか母と重なりました。
そこから5時間、全てを手作業で救助作業を行いました。手袋が破けて、爪が剥がれ血が滲んでいたことを覚えています。建物から高齢者を無事に救出するには、現場への医師要請が必要で、点滴や酸素投与等の医療行為と救助作業を並行して行いました。(阪神大震災の苦い経験から)

これが、当時日本国内で初めて、現場で災害医療が行われた瞬間でした。「クラッシュ・シンドローム(※)」が心配でしたし、建物から救出したおばあさんの状態を見届けたかったけれど、救急隊に託した私はすぐに次の現場へ向かわなければなりませんでした。

※倒壊した建物などに挟まれ体の一部が長時間圧迫を受けることで、血流が停滞し、筋肉が障害を受け、筋細胞の壊死が生じること。最悪の場合、死に至ることもある。

――救助はできたものの、おばあさんがその後どうなったか、分からず終いだったのですね。

新聞を隅から隅まで読みましたが、90歳のおばあさんが亡くなったという記事は載っていませんでした。災害から半年経った頃、消防署で仕事をしていたところ、窓の向こうに車いすに乗ったおばあさんと、男性、小さな男の子の姿が見えました。スロープのない庁舎の裏手に回ろうとしたので、警備室から出て「手を貸しましょうか?」と手を差し出したのです。

その手を見るなり、おばあさんが「その大きな手、あなたよね? 野村さんとおっしゃるのね」とひと言。なんと、あの時救助したおばあさんが、社会復帰をして私に会いに来てくれたのです。おばあさんは「今日はあなたに絶対言おうと思っていたことがあります」と前置きして、こんな話をしてくれました。「あなたは、私の人生をレスキューしてくれました。命を助けるだけでなく、人生そのものをレスキューしてくれた消防士は、あなたが最初で最後だと思います。これからも職務を全うし、どうか自分が決めたことを貫いてください」。

この出来事が、私にとってターニングポイントになりました。消防士として出世を目指すのではなく、困っている人や助けを求めている人に寄り添い、その人の人生そのものを救えるような生き方をしていこう、と覚悟を決めたのです。

これからの地域や社会に 必要な防災対策とは?

野村功次郎025

――これまで、「レスキューベスト」や「心肺蘇生補助ハンカチ」などさまざまな防災アイテムを開発されてきました。日本の災害対策や防災教育に対してどのような課題を感じ、アイテムの開発に尽力されてきたのでしょうか。

阪神淡路大震災の時、自治体ごとに防災装備がバラバラで、救助に活かせないといった事態に直面しました。例えば、ホースのメーカーが異なるため金具が接続できず、水が一滴も出せないといったことも。装備を用意するだけで、「いざという時」を想定した備えができていなかったのです。

このような経験から、各自治体の防災装備を統一する、必要な人が必要なタイミングで使えるようにレイアウトするなど、防災システムを根本から見直していく必要性を感じました。これからの時代は、物理的な備えはもちろん、IoTやICTなども活用しながら、命を守るための防災を考えていくべきだと思っています。

――2024年元日に起きた能登半島地震とその後の対応を見て、これからの地域や社会にどのような仕組みが必要だと思われましたか。

私は10年以上前から、「防災拠点基地」や「災害対応型事業所」の必要性を訴えてきました。災害で陸路が遮断された際、物資の輸送船や病院船、避難船が停泊できるよう、港のある横須賀や舞鶴、呉、佐世保などに、研究、開発、生産、育成などを兼ね備えた防災拠点基地を置く。そして、いざという時に避難所や検査所として使えるよう、各地域に災害対応型のホテルや店舗を増やしていく。そのような仕組みを確立することで、災害時に困る人が減り、復旧スピードも早まるのではないかと思います。

まずは地元からということで、広島では現在、数店のパチンコ店を「災害対応型遊技場」として設置しています。災害時は、店内を一時避難場所として使用したり、運ばれてきた物資を蓄積したりできるようになっています。

防災家として フィードフォワードの重要性を伝えていく

野村功次郎042

――今後の目標や取り組んでいきたいことを教えてください。

今後取り組んでいきたいことは2つあり、1つは私のような人材を育てていくことです。できれば、防災のエキスパートとして活動するための知識やスキルを学べるようなアカデミーを主催したいと考えています。もう1つは、災害大国と呼ばれる日本が培ってきた防災の技術やノウハウを規格化し、ISO認証を得ること。認証を得られれば、防災ISOとして世界に売り込んでいくこともできるはずです。

――防災家・防災スペシャリストとして、これからの世代にどのようなことを伝えていきたいと考えていますか。

日本の防災教育は「フィードバック=災害が起きた後の対策」ばかり教えがちですが、これからは「フィードフォワード=災害が起きる前の対策」を伝えていくべきだと思っています。その一環として、現在、企業と共同で、プログラミングを通して気象学や防災学を学べる教材を開発中です。

例えば、自分で雷を作ってみることで、雷が落ちる現象について学ぶ。あるいは、逃げるルートを選択することで、危機的な状況から生き延びる。災害の現象について知り、自分で調べて自分で答えを出すやり方を、子どもたちに学んでほしいのです。

防災家が教える 「命を守るポージング」

野村功次郎047

学生時代、災害時は正座をして両手で頭を守る「ダンゴムシのポーズ」をとりなさいと教わりませんでしたか? しかし、いざ本当に災害が起きた時、これでは助かりません。なぜなら、視線を下げているため倒れてくる物が見えませんし、重心を下げているため危ないと思った時にすぐ動けません。では、いざという時どんなポーズをとればいいか? 私が推奨するのは、次のようなポーズです。このポーズなら、危険を素早く察知でき、物が倒れてきた時もすぐに立ち上がって逃げられます。

<命を守るポージング>
① 立膝(三点支持)をつき、お尻(重心)を落とさないようにしゃがむ。
②両手で後頭部を守り、視線は落とさず周りを見る。
③両肘と両腕で肺と心臓を守る。

野村功次郎1
野村功次郎3
講師のプロフィールを見る

Interview 講師インタビュー

他のインタビューを見る

Contact お問い合わせ

ご相談は無料です。
ホームページに掲載のない講師も対応可能です。
お気軽にお問い合わせください。

電話アイコン 03-5501-1122 (営業時間 月曜~金曜 9:00~18:00)
お問い合わせ メールのアイコン

候補に入れた講師

  • 候補がありません。

×